ぶるうす日記 | |||||
見つけましたね | |||||
〜日々の更新を自らに課すために〜 | |||||
(1) (09/3/21) 〜ごあいさつ〜 | ||
2009年3月18日にこのHPの公開を始めました。 知り合いの中に音楽を生業としている人が多く、それぞれHPを持っているのですが、サイトの更新が数年前に止まっているのが殆どです。もちろん大手のレコード会社からCDを出しているようなメジャーな知り合いは少ないのですが、毎日更新する情報も乏しくいつのまにか開店休業モードに成り果てて行くようです。音楽等は関係なしに趣味でHPを公開している方も多いと思いますがいつのまにか更新しなくなった…と言う方もこのネット上にかなりの数のサイトがあると思います。それに今はブログやmixiのようなのをメインに移行している方が多いとも思います。そういった事で、このサイトも更新出来るページは「I Play and Music」くらいなので、この“ぶるうす日記”に独り言を書いて出来る限り更新を自分に課しました。 わたくしが遥か大昔の18才の時にギター教室の講師(この当時は"先生”と呼ぶ方が一般的でした)を始めさせていただきました。それから数年後、その頃はまだ“フォーク・ソング”ブームで、京都で高い人気があった女性ヴォーカルと男性がギターとハーモニーの“ララバイ”と呼ぶ確かご夫婦のデュオが京都で開くリサイタルのバックの仕事をしました。“ララバイ”はレコードもすでに何枚かも出していて、ラジオ等にもよくゲストで出演されていたグループです。このリサイタルの練習は今は無き大阪吹田の千里丘にあった毎日放送ラジオの当時大変人気のあった“ヤンタン”(月〜金まで深夜のオンエアで、毎回会場には200人ほどのリスナーを客席に入れた公開録音番組でした)を公開録音していた大放送室です。この練習は夕方6時ごろから夜中の3時頃まで20曲以上をバックでギターを弾くのですが、まだ当時は譜面になれていなかったので冷や汗もんですしかしかなり自由に弾かせていただきましたのでなんとか出来ましたが、練習は本番前のこの日1回きり。コンサート当日は朝から京都のコンサート・ホールへ入り早速音合わせに入ったのですが、突然「この曲はエレキ・ギターの方が合っているのでこれでお願いします」とE・ギターを渡されました。しかしそれまでアコースティック・ギター以外は弾いた事がなかったのですが、ま、なんとか無事に。いよいよ本番に入ってから第一部が終わり二部が始まる前の休憩時間に入ったところ、アレンジャーの方が「二部の1曲目のイントロを変えたのでこの楽譜でお願いします」と楽譜を渡されました。これはあせりました。このアレンジャーの方は名前は忘れたのですが当時は売れっ子の方でTVによく出演されていた方で「TVで見た人や!」と、よけいに緊張しましたが、今ではうまく演奏出来たのか覚えていません。でも大変貴重な経験が出来てよかったです。 |
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(2) (09/3/22) 〜なんかスゴイ先輩〜 | ||
フォーク・ブーム真っ盛りの時に高校に入学してフォーク・ソング・クラブに入部しました。 その時に入ったこのクラブにナガシマさんという方が…確か副部長だったのですがあまりクラブ活動に顔を出しません…がおられたのですが、ある日学校からの帰りに電車に乗るとそのナガシマ先輩と合いました。その時「広岡…やったな?これから行く所にお前も来るか?」と誘われ一緒について行くと、そこは大阪の地下鉄駅の「なんば」駅。この駅を降りるとこちらでは少し有名な靴の販売をしている「トミヤマ・シューズ」の大きなビルが建っているのですが、この2Fで当時100人程の前で生の公開放送をしているラジオ大阪の放送局が入っていました。残念ながら番組名は忘れましたが、僕はてっきりこのナガシマ先輩はこの番組を見に来たの誘っていただいたと思い、一緒にその放送が始まる前のスタジオに入りました。 そこで「先輩、よくここに来るのですか?」と聞くと「…まあな」と。 で、生放送があと10分程で始まるので(夕方の5時30分からオンエアです)客席に座るとその先輩がいなくなりました。時間が経つにつれ100人程のリスナーがこの番組を生で楽しむためにスタジオに入って客席が埋まっていきました。ひとり残された僕もとにかくイスに座って番組が始まるの待っていると、なんとマイクを持った先輩が出てきました! 「さあ、あと5分程で始まります!みなさんよろしく〜!」と。 まさかこのナガシマ先輩がこのラジオ番組の司会をしているとは! オンエアが夕方だったのであまり聞いていなかったのですが毎回フォーク・グループのゲストや当時人気のあった漫才、違う曜日には浜村淳さんが司会とそれなりに大阪では視聴率のある番組です。 この番組は(月)〜(金)までオンエアされていたのですが、確か先輩は(木)が担当だったようですが、それに先輩と言っても17才です。これには驚きました。まさかラジオの司会をしているとは! あとあとこのナガシマ先輩には大変お世話になって行きました。 |
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(3) (09/3/23) 〜ヤンタン〜 | ||
先の日記(?)に書いた“ヤンタン”の思い出話を。 60年代〜70年代のフォーク・ブームは元はアメリカからの「カレッジ・フォーク」の影響を受け歌詞の内容も反戦、反体制を謳った歌詞が中心だったのが70年代あたりから恋愛の曲も増えて来ました。今のJ‐POPに近いかもわかりませんが、やはりこういった男女の恋愛を歌う曲の方が世間では受けが良かったと思います。この70年代あたりからとくにラジオ番組にフォークを聴かす番組が殆どで、どの局の番組にも「アマチュア・バンド登場」コーナーのようなものがあり、出演希望のアマチュアがハガキで応募して予選を受けて合格すればスタジオで録音をして番組中にオンエアされる…スタイルです。こういった番組でもとくに関西地方でダントツに人気のあった番組が大阪毎日放送ラジオの「ヤング・タウン」通称“ヤンタン”で、この番組のスタイルは(月)から(金)の夕方に大阪吹田の毎日放送千里丘スタジオに200人程のリスナーを入れ公開放送を録音してその日の深夜にオンエアされていました。そしてオーデションに合格したアマチュア・グループの別のスタジオで録音した曲が毎日一曲づつ流されます。そしてその月のもっともリスナーの人気投票で一番になったグループの演奏が「今月の唄」と称して毎日オンエアされます。この「今月の唄」に登場した多くのアマチュアがレコード・デビュー出来る言わば“登竜門”。当時人気のあったのは“ロック・キャンディーズ”その後“アリス”としてプロ活動をした谷村新司さん率いるバンド、“小さなオルフェ”男ふたりで金森幸助さんのデュオ、後にレコード大賞受賞の“シモンズ”、現在はソロ活動されている“茶木みやこ”さん等などですが、まず最初のオーデションに受かるのが大変な難関でした。高校時代に僕もバンドでオーデションを受けたのですが、このオーデション会場は大阪心斎橋のヤマハのビルの一室。一日250〜350バンド程が受けに来るのですが、係りの方が「オーデション番号1番から50番までの合格者は受付番号の5番の○○と37番の○○です。不合格のバンドのみなさん是非次回もよろしくお願いします。では引き続き受け付け番号51番から80番まで控え室に入って音合わせの準備をお願いします」とこういった調子でした。一回のオーデションで三ヶ月分程のバンドが選ばれ、僕の場合は確か3度目の挑戦で合格し自分達の唄がラジオから流れたのですがその時はうれしくてうれしくて…。残念ながら「今月の唄」には選ばれませんでしたが良い思い出です。 |
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(4) (09/3/24) 〜チンペイさん〜 | ||
前の日記に書いた当時人気のあった“ロック・キャンディーズ”は後に“アリス”としてプロ・デビューした谷村新司氏のフォーク・グループですが、谷村さんをチンペイと呼んでいました。もちろん友人の間でのニックネームだと思いますが。そのチンペイ氏の家が僕が以前に住んでいた大阪東住吉区の駒川という所で近所で「駒川マンション」と呼ぶマンションに住んでおられてその近くの本屋や近鉄南大阪線「北田辺駅」のホームでよく見かけましたが、僕とは知り合いではなかったし見かけても声なんてかけられませんでしたが、前の日記で書いたナガシマ先輩と後日繋がって行きます。この頃は僕はフォークからブルースに興味を持っていた時なのでファンでもなんでもありませんでしたが、関西ではかなり知名度のある人なのでオーラを感じました。 このチンペイさんがアマチュア時代のロックキャンディースが神戸の「ポートジュビリー」と呼ぶフォークのサークルに所属しており、後に僕もこのサークルに入ります。フォーク・ブームの時は日本中にフォーク好きの集まるアマチュアのサークルが色々と存在していたのですが、このサークルとは高校のフォーク部や大学のクラブの卒業生の先輩達が社会に出ても音楽を続けようと集まった同好会のようなものです。 このサークルからプロだ出たりするとサークルそのものが有名になり、後に入ったポートジュビリーと呼ぶ神戸を拠点としたこのサークルなんていつもラジオ局のディレクターやレコード会社の人が物色に来ていました。 |
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(5) (09/3/26) 〜中川イサトさん〜 | ||
もと初代「五つの赤い風船」のオリジナル・メンバーでギターの名手中川イサトさん。 ここ最近はお会いする機会もなくごぶさたなのですが、その昔1970年から80年頃に当時僕が組んでいたグループ「ノーボディズ・ストリングス・バンド」のコンサートでゲスト出演していただい時からお付き合いさせていただいています。イサトさんを是非ゲストにと、当時の音楽事務所の「URC」にゲスト依頼の電話をしました。この時「○月○日に朝日放送の第○スタジオで音録りの練習しているから直接本人に会って下さい」と言われご本人とギャラの交渉をする事になったのですが、これは当時僕達は学生なのでお金がない事で事務所を通すより本人と直接交渉した方が低いギャラで出ていただけるので、ありがたい事に気を使っていただいたと思います。そして後日に朝日放送のスタジオに行くと「五つの赤い風船」の練習中。初めてイサトさんやリーダーの西岡たかしさんを目の前に見てかなり緊張したのですが無事にギャラの交渉もほどなく済ませコンサートのゲストに出演していただきました。これがきっかけで当時ミノウ市に住んでいたイサト宅へよく遊びに行かせていただきき、一緒にブルースを弾いたりとうれしい思い出が多く、その後はアコースティック・ギターのコンサートを何度も開いたり、ジョン・レンボーンの日本版の楽譜集の出版も参加させていただきました。 他にもステファン・グロスマンのレーベルからイサトさんとレコードを出す話もあったのですが残念ながら流れてしまいました。 |
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(6) (09/3/26) 〜河島英五さんの思い出〜 | ||
先の日記のイサトさんと知り合う前、もう少しフォーク・ブームが続いていた頃に37才でお亡くなりになりました河島英五さんとも友人でした。(4)の日記にあるようにフォーク・ブーム当時には日本中に様々なフォークのサークルがあり神戸に拠点を置く「ポートジュビリー」に入る前に大阪のフォーク・サークル「大阪フォーク・アウトロー」の会員でした。こういったサークルに入るのを「入会」と呼んでいたので「会員」になるのですが、毎月300円程度の会費を集めていました。このお金はサークルの会報やコンサートを開くためのお金です。今これを書いていて思い出しましたが「会報」は当時もちろんパソコンはない時代ですので、ガリ版で作っていました。このガリ版と言うのも最近は見かけないですが、表面が蝋で覆われている透明の用紙に鉄筆で文字を書き、それを輪転機で印刷します。当時の小学校などのテスト用紙と同じです。 話戻って、 この「大阪フォーク・アウトロー」と呼ぶフォーク・サークルは他のサークルもそうであったのですが毎月一度は区役所などの会議室を借りて「定期例会」を開きます。これは会員が同じサークルの会員に新曲を披露したりコンサートの企画などを話し合う会議のようなもので、この例会に時々ゲストを迎え、会員に刺激を与えていました。このゲストにある日「ホモサピエンス」という河島さんがリーダーで、弟さん(ベース)とビブラフォーンの男性3人のグループをお呼びしました。河島さんもまだアマチュアで、知名度も全くなかったグループですが、初めて聴いた河島さんの曲には感動したのを覚えています。こういった事が縁で後日この「ホモサピエンス」が東大阪市民会館でリサイタル・コンサートを開くのですが、うれしいことにゲストにお招きをいただきました。とにかく瞬く間に知名度が知れ渡りやはり先の日記に書いたヤンタンにもゲストで出演したグループですが残念な事にこのグループとしての河島英五さんの唄声は残っていないようです。 |
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(7) (09/3/27) 〜ライブ・ハウス〜 | ||
フォーク・ブームの頃は今のようにライブ・ハウスが少なくコンサート・ホールが演奏の場でした。それに、ライブ演奏が出来る店を“生演奏の出来る(聴ける)喫茶店”と呼んでいたのですが、これは普通の喫茶店の店内のテーブルを移動して1人か2人が弾語り出来るスペースを確保しただけの店がほとんどだったからそう呼んでいました。それにアコースティック・ギターが全盛でしたのでこのような店でも充分だったのですが、アンプを使い、ドラム等が必要なロック系のライブ・ハウスはもっと少なかったと思います。ジャズ喫茶は昔から多く営業していましたが、生演奏が聴ける店はやはり少なくてほとんどはジャズのレコードを聴かせる店です。ただ店内に置いてあるオーディオ機器は民生用でなく営業用で、まるで目の前で演奏をしているような錯覚を起すくらいにリアルな音が聴こえるすごいモノ。家で聴いているレコードを持って馴染みの店のオーディオで聴かせていただくと自分の家で聴いていた音と全く違ったのを覚えています。もちろん持って行くレコードはその店の主人が納得したジャズでなければダメでしたが。このジャズ喫茶には独特の空気がありました。コーヒー一杯、小さなグラスの水割り一杯でで2〜3時間以上みんな黙って、中には目をつぶり、静かにジャズのレコードを聴いて楽しんでいたので初めてこのような店に入った時は“大人”の雰囲気を感じたものです。今はジャズを聴く若い人が少なくこのようなジャズ喫茶が少なくなりましたが、大阪ではほぼ老舗と呼ばれていたライブ・ハウスは姿を消しました。原因は客が入らない、からです。どんなに有名なミュージシャンが出演しようともここ大阪では客の入りは悪く、営業が成り立たないのが殆どでこれは当分続きそうです。 | ||
(8) (09/3/28) 〜ブログの開設〜 | ||
本日「buesblog」を開設しました。すでに開設しているのもあるのですが近々削除してこの新しいブログひとつにする予定です。最初は「掲示板」を設置しようかと考えていたのですが、両方共に外部のサービスだし、まあ良く似たスタイルなのでブログを優先。それにmixiもあるのですが、そんなに投稿する記事、情報もないのですが…。でもよく考えればこの「ぶるうす日記」もあるなぁ…。こっちに書いているのをブログにも掲載しようと思うのですが、そうなるとこの日記も必要ないか…、とか考えてしまいます。 | ||
(9) (09/3/29) 〜1975年代〜 | ||
75’頃にレコード・デビューした友人のフォーク・グループが結構多くいました。ただそのままメジャーになって今でも活動している人は殆どいないのですが、この時代にレコードを自主でなくレコード会社から出たのですからたいしたモンです。今でもよく覚えているのは女性3人のグループ「シャトレ」。メンバーは違うのですがこの名前の前に「舞姫」というグループ名でした。この「シャトレ」は関西地区だけの放送ですがTVに出演していたり、TVCFも仕事を持っていましたが「シャトレ」解散後にグールプのリーダーの方のバックで僕がギターを弾きデュオで活動していました。そのおかげで厚生年金ホールとよぶ大阪では歴史あるコンサート・ホールのあの大きなステージにもたてました。あと「蜂の巣」と呼ぶ女性ボーカルと男性ふたりの3人のグループで知り合ったときにはすでにラジオで流れるCMソングも唄っており知名度はかなりありました。この「蜂の巣」も解散した後にボーカルの女性とふたりでコンサートやラジオに出させていただきました。この人はとにかく唄が上手くバックでギターを弾いていても大変楽しかった思い出があります。この頃はプロでもなかなか食べていけなかった時代です。音楽事務所に所属していてレコードも数枚出しているのですが、やはり大阪で有名でも東京発のような全国区の知名度がないので、殆どのプロが食べていけないので音楽は趣味として会社勤めをしていきました。それに今のようにアルバイトも新聞配達や牛乳配達などしかない時代でしたので働くと言えば正業に就くことでした。 | ||
(10) (09/3/30) 〜作曲〜 | ||
僕が曲を作る時はギターをとにかく弾いているうちに閃くことがありますが、歩いている時、電車に乗っている時にメロディが浮かびます。もちろん頭の中で思いつくままにメロディを考えているのですが本日も大阪の地下鉄四つ橋線の「大国町」を過ぎたあたりから気に入ったメロディが頭の中に浮かびました。最初はジャズぽい旋律だったのですが、途中からバロック、メヌエット風なメロディです。もちろん電車の中ですのでギターを弾けない、5線紙も手元にない(持っていても楽器がなければ楽譜が書けない…)、ので家に帰り着くまで忘れないように反復反復…。で家に帰って部屋に入ってギターを持ち楽譜におこしました。なんとか書けましたがこういうのに限って実際に音を出すと今いちな旋律です。楽器を持たないで音符を書ければ…。勉強。 | ||
(11) (09/3/31) 〜CDの販売方法〜 | ||
あとも少しでわたくしのCDの発売で現在はケースに封入されるブックレット等のデザインを製作中です。最初はこの印刷物のデザインも全て自分で、と思っていたのですが友人のCDを見てやはり自作とプロのデザイナーとの差は歴然としているのでラフ・デザインだけを考えてあとはデザイナーの方にお任せしました。このデザインが決定すればプレスだけですので2週間から3週間で完成です。で、販売方法なのですが、メジャーでも昨今はCDが全く売れない時代なのと、レコードの流通にはのらないので時間をかけてライブ等の手売りが中心になると思います。アマゾンでも購入可能なのですがその為にはCDの固有コードを申請して取らなければ販売出来ません。これに5万円かかります。その後に代講業者にアマゾンへ登録を依頼するのですがこれに約3万はかかりますが、まれにアマゾン側の審査を通過しない事もあるそうです。しかも審査に合格して商品を掲載するには在庫としてCDを送るのですが一ヶ月毎の保管料も必要。でめでたく一枚でも売れても60%がマージンとして払わなければいけない条件です。大手のレコード会社のメジャーな歌手のCDでもないのでこれはやめです。でもありがたい事にギターの生徒さんが楽店にネット・ショップを開いており、このショップで僕のCDを扱っていただけるようになりました。これでネットで販売が出来るようになりうれしいです。この生徒さんのネット・ショップでの取り扱いはオリジナルのロックぽい指輪、アクセサリーです。ので、僕のブルースぽいCDもよく合いそうです。本当にありがたく感謝です。発売日等が決まればこの隠しページでなく『my CD』のページに掲載しますのでよろしくお願いいたしますm(__)m。 | ||
(12) (09/4/2) 〜ひいみ〜 | ||
わたくしが高校生の時にギター2人、ベース、女性ボーカルの4人のグループを結成して活動していました。この時のボーカルを「ひいみ」と呼んでいました。もちろん本名ではないのですが、かなりの歌唱力を持った人だったのを覚えています。当時はラジオに出演するために毎週のように各局のオーデションを受けていたのですが、彼女がメンバーに加わってからどんどん合格しました。それから高校を卒業する時に解散したのですが、何年か後にもういちどこの「ひいみ」と組みたくなり連絡をとりました。その時彼女が「ゲンちゃんと呼んでいる人も一緒に来てもらってギターの演奏を聴いてもらうけどいい?」とかの返事。誰の事か知らないけど自分で決めればいいのに、と思いながら久し振りに会ってその男性を見ると、なんと「高山厳」さんで驚きました。この人はフォーク・グループ「アリス」と同じ人気の高かった「ばんばん」のメンバーのひとりです。「ばんばん」は解散していましたがリーダーの「ばんば ひろふみ」さんは「イチゴ白書をもう一度」で大ヒットさせ今はラジオなどで活躍されています。この「高山厳」さんは解散後演歌歌手に転進してレコード大賞も獲った程の人なので、まさかこんな人を「ひいみ」が連れて来るとは!結局音楽の方向性が違ったので再び「ひいみ」さんとは組まなかったのですが、今現在はどうしているのか。あれだけ唄が上手かったのに…。と思い出しました。 | ||
(13) (09/4/3) 〜インスタント&カップ〜 | ||
昭和30年生まれの僕にはTVがB/Wからカラー放送が始まった時は今では想像もつかない程の衝撃を受けました。他にも「東京オリンピック」「大阪万国博覧会」の開催も同じように日本中がお祭り騒ぎ。そして「お湯をかけて3分待って食べれるチキン・ラーメン」。数年先には「外を歩きながらでも好きな音楽をHi-Fiステレオで聴ける!」の「ウォークマン」の出現。で、「カップヌードル」。このインスタント・ラーメンでもカップ麺は今尚よく食べています。とくに「カップヌードル」は大学の頃は毎日食べていたし、電車を待つ駅にもお湯が出るカップヌーダロの自販機もありベンチでよくすすっていたのを思い出します。この自販機はお金を入れると例のカップヌードルがセットされ、あの「めくり上げる」フタの上からアルミチューブが串刺しにしてお湯を入れてくれます。その後に取り出して3分待つ…。この商品は大ヒットしたので当然他のインスタント麺のメーカーも怒涛のごとくカップ麺を出し、毎日いろいろな種類を食べました。最近は新製品の種類が多すぎてそういった事はやめましたが、それでも月に3個以上は買っています。今はラーメン以外にうどん、そば、焼きソバ、パスタ、ソーメン、まぜ麺とかいろいろ発売されて中には日清の「具多」のように生めんで楽しめるカップ麺までありすごい技術力です。昔はカップヌードルの日清から「カップライス」もチキン・ライス、ドライ・カレー、赤飯と出ていたのですが消滅しました。やはり米のインスタント化は難しいようですが、食べたことがないのですが非常食として「アルファ米」が売っています。これは水でも湯でもいいのですが確か20分以上待たなければ食べれないので、他のカップ麺のように気軽に食べれません。ただし味、食感は本物と同じなのでインスタントとは呼ばないのかもわかりません。インスタント麺とは別に昔からの素麺等の「乾麺」もインスタント麺ではないので。今これを書きながら日清の新製品「どん兵/鴨出しそば」を食していますが…美味しいです。 | ||
(14) (09/4/12) 〜作曲時のKEY〜 | ||
ブログにも書いたのですが、今世界中の音楽には「KEY」、つまり「調性」があります。各国の民族音楽等は例外として「ハ長調」や「ホ短調」、「キーがCの曲」または「Emの曲」と殆どの音楽、フォークもJ-POPもロックも演歌もクラシックもジャズにも「KEY」がまず存在するはずです。ボーカルなら自分の声域から「このKEYは私の声では唄いにくい」とかありますが、楽器の演奏でも各楽器の特性から得意なKEYや苦手なKEYも多くの人にはあります。ギターの場合なら、アコースティック・ギターではフォークの時代から「C/ハ長調」「D/ニ長調」「E/ホ長調」「G/ト長調」「A/イ長調」等がメジャー・KEYで短調…つまりマイナー・KEYなら「Am/イ短調」「Em/ホ短調」が最も多く演歌では「Dm/ニ短調」がなぜか多いです。こういったKEYが多いに理由のひとつには「コードが容易に押えやすい」も影響しているのと、例えばKEYが「Bm/ロ短調」なら2フレットにカポタストを装着して結局は「Am」コードのフォームで弾けるのでこのカポタストの便利さもそうだと思います。 でも唄のないギターの曲…インスト・チューンは唄わないので声域が関係がないのでもっと自由なKEYで弾けるはずなのですが、クラシックのギター曲も先に書いたKEYの曲が多いようです。 で、 今書いている曲のKEYが「F#/嬰ヘ長調」(嬰…エイと読み、シャープ、つまり半音高く、の意味です)です。 このKEYで音譜を書く時はシャープが6個要ります。音階を書くと(ファ#)(ソ#)(ラ#)(シ)(ド#)(レ#)(ミ#)(ファ#)がド・レ・ミ〜と同じ長調の音階で(シ)以外は全て半音高い音名になります。この「F#」で音符を書く時によく間違うのは「ミのシャープ」で、普通「ミ」音を半音上げると「ファ」と同じ音になるので楽譜によっては譜面を見やすくするためにあえて「ミ#」を「ファ」として書く事もあります。耳で聴くともちろん同じ音で、ポジションもギターのフレットの位置もピアノなど鍵盤の位置も「ミ#」と「ファ」は全く同じなのですが、音楽的には別の音になりますのでどちらでもいい…わけではないのです。それと「ミ#」を音階に持つKEYは少ないので楽譜に書く時に間違ってしまいます。この「F#」が「F#m/嬰へ短調」なら「A/イ長調」と同じ「ファ#」「ド#」「ソ#」でよく使う音階で慣れているのですが…。 |
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(15) (09/4/17) 〜浪花のモーツアルト〜 | ||
前のこの日記にも書きましたが、フォーク・ブームの頃には各ラジオ局にアマチュアが出演出来るコーナーが番組中に必ずありました。毎日放送の「MBSヤング・タウン」が有名でしたが朝日放送の同じく深夜番組「ABCヤング・リクエスト」には番組中に「ミキサー完備スタジオ貸します」と呼ぶ人気コーナーがあったのですが、このコーナーは他局と違ってオーデションはなくてハガキで応募するだけで出る事が出来た人気コーナーです。おもしろいのはスタジオでの演奏を「浪花のモーツアルト」ことキダ・タロー氏が感想や批評をその場で言ってくれます。もちろんこれはオン・エアする日の夕方に朝日放送のスタジオで録音するのですが、学生の時に後輩のバンドが出るので一緒に付いて行った時にキダ氏を見つけ「ラジオで流さなくてもいいのでキダさんに一度聞いて欲しいのですが…」と直談判したところ「ほな、来週出したるからその時にも一度バンドのメンバーとおいで」と言っていただき僕もこの番組に出ました。実にフレンドリーな人でTVなどに出ているのを見るとかなり「おもろい大阪のおっさん」ですが本当はどえらい方です。大阪のTVやラジオで流れるCMソングの多くはキダ・タロー作曲なのですが、クラシックはもとよりジャズなどにも精通している「大音楽家」です。 | ||
(16) (09/4/24) 〜ターゲット・リンク〜 | ||
このページのインデックスのタイトルをクリックすればそのタイトルへ瞬時に移動…これをターゲット・リンクと呼ぶそうです。普通はアドレスをクリックしてそのページへ移動するのを同じページ内等でリンク付けをするとこのページのように下へスクロールする手間が省けます。戻る時はプラウザの←をクリックすればそのページの最初に戻るのですが、丁寧に作れば↑で戻るサイトもよく見ます。なかなか便利な機能ですが、ページを作成する時に初めにそれを考えて作らなければ僕のように後で気付いて作ると邪魔くさい、です。 | ||
(17) (09/4/25) 〜パソコン・ソフト〜 | ||
PCは95時代から使っていますが、ネットに繋ぐのはかなり遅くてXPからです。もともとパソコンを買ったのは楽譜や昔の音楽雑誌等をスキャナーで取り込んでアーカイブ化を、と考えての購入でした。ですが全く邪魔臭いのでやっていません。この先も多分しないだろうな。ネットも全く興味が持てず、なぜ、企業作ったホーム・ページでその会社の宣伝を見たり、全く知らない人のホーム・ページで他人の趣味を知っても意味がないと思っていたからです。ところがぎっちょんちょん。ネットに繋がず何がPCか?ただの箱、と最近は考え直して今では必需品になっています。なのでたまにトラブルやエラーでPCが使えなかった時は不安になり、かなPCに依存しているのがわかります。こういったHPも作ったり、音楽を聴いたり、画像、動画が見れてホントに便利なモノ。と言ってもほとんど僕にはオモチャと同じ扱いで、音楽ソフトも楽譜清浄ソフトくらいしかインストールしていません。PCで音楽を作る気も全くないですがディスクを製作するには重宝します。そうそうPCソフトでの音楽ソフトは何種類か有名なのがありますが、スタジオで使っているのもほとんど一般に市販されているのと同じです。ようするにアマチュア用、プロ用ソフトとかありません。だから音楽ソフトは高額なのですが、今ではJ‐POP、演歌等で必ず使うのは音程を補正するソフト。ようするに唄のある部分の音程が外れた時にこのソフトを使って補正出来るのです。部分的に使ったり録音した曲の全体にかけると音程が自動で直されます。ほとんどのCD制作の最後の仕上げに当たり前のように使われています。だからCD聴いて気に入り、ライブを聴きに行くと「思ったよりうまくないような気が…」と感じた人も多いわけです。まあ、CDは売るための商品ですので出来る限り良いモノを製作するわけですが。 | ||
(18) (09/5/2) 〜ピック・アップ〜 | ||
数年前からアコースティック・ギター用に音質の良いピック・アップが出ていますが、僕が最初にこれを試した時は1970年代で「バーカスヴェリー」社から出ているものしかありませんでした。横1p縦5〜6p位の小さな黒い筐体で現在でも世界的に有名な老舗メーカーの製品です。ギター以外にもW・ベースやフルート、ヴァイオリン等のアコースティック楽器全般に付けれるように各種出ていますが、当時の使い方はギターの表面板に付属のセメントで張りつけこれに付いているシールドの先にE・ギター用等のシールドを繋ぎギター・アンプから音を出していました。ステージのモニターとしてはなんとか使えるのですが、このG・アンプから出る音をマイクで拾いPAから出すとかなりヒドイ音。いくらマーチンやギブソンでも合板の低価格のチープな音に聴こえてあまり使い物にはならなかったように覚えています。そんな音でもライブによって使っていたのは、当時僕のグループはPENTANGLEのコピーが中心でギター×2、ウッド・ベース、ヴォーカル、ドラムの編成です。とくにドラムの音でギターの音がステージでも聴こえないので使っていました。今はソロでも殆どの人が使っていますが、これはオープン・チューニング中心、タッピング、ハーモニクスを多様する奏法には効果があり、またPAのミキサーが非常に楽、等の理由からだと思います。それに先のバーカスヴェリーから格段に音質も向上して、それにギター・アンプからではなく直接PAから出すので安定した音量と音質も保てます。ただ奏法にもよりますがライブ等では付けてもレコーディングには僕は付けません。使わない方がギターの個性がよく出て、こちらの音の方が好きですね。もちろん先に書いたように奏法によってこれを付けないとチープなサウンドになるので各ギタリストのスタイルで使うかどうか分かれるようです。ただやっかいなのは、ライブ・ハウス等でステージでリハをする時に必ずPA担当のスタッフが「シールド下さい」と聞いて来ます。「マイクで生の音を」と告げると眉にしわを寄せる奴が多いですね。クラシックの演奏会ではステージにマイクなしでも多いようです。 | ||
(19) (09/5/3) 〜映画監督北村龍平君〜 | ||
古い友人に映画監督の北村龍平君がいます。現在はアメリカ合衆国のビバリー・ヒルズに家族と居を構えハリウッド作品の監督をしているのですが、日本では東宝で「あずみ」「ゴジラ/ファイナル」他とTV作品の監督も撮りました。今でも日本での作品の監督のため年に数回は戻っています。そんな今ではメジャーになった北村君がまだアマチュアの頃に8_フィルム作品で僕も協力しています。僕のカメラ…8_フィルムでビデオ・テープでなくてフィルムです…を彼に使っていただき撮影も数ショットが僕が撮ったシーンがあります。この時の作品の内容は、ある高校が舞台で、頭の非常に良い優等生がその天才的な頭脳でバイオ・モンスターの研究をしていたのですが、この学校の不良に虐めれた挙句にモンスターになり反撃をする…といったヌトーリーです。教室での授業風景、不良グループの乱闘シーン、モンスターとの闘い…と見所たっぷりの学園モンスター・アクション作品。モンスターのメイクもなかなかのものでしたが、撮影が進むにつれ主人公(モンスターに変身する優等生)の役をしていた人がメイクのせいで息苦しくなったりと大変でした。舞台となる学校のシーンは新しく建設が終わったエレベーターのあるビルを丸一日中借りて徹夜で撮影。しかし、アクション・シーンなどで各フロアーが靴の跡とか付いてあとの掃除が大変でした。(続く) | ||
(20) (09/5/15) 〜六畳一間のアパートで〜 | ||
僕が1970年代の高校生の時に男3人+女1人の4人のフォーク・グループを組んでいました。この時代は前に書いたように各ラジオ局の番組の中にアマチュアが出演出来るコーナーがあり毎週のようにラジオ局のスタジオでオーデションを催していました。その他にも楽器店が独自で主催するコンサートやレコード会社等の音楽関連の会社がそれぞれコンサートを開くためにやはりオーデションが花盛りの時代です。 僕達も毎週のように様々なオーデションを受けるのですが50%を少し超えた位の合格率。そこでメンバーと話し合ってもっと上手くなろう、レベルを上げようと一ヶ月の合宿を行いました。 その合宿の場所がメンバーの親戚がアパートの管理をしていたので空いている部屋を無料で借りる事が出来ました。その部屋は六畳一間の典型的な当時の木造のアパートです。ここで学校が休みの夏に一ヶ月かけて朝から練習三昧で、三度の食事も共に泊まる事もあれば夜になって帰る日もあり結構楽しく一ヶ月を過ごせました。 もちろんフォーク・グループですので唄いながらの練習ですが、夜はゲームをしたりみんなで曲を作ったりと他の住人の方には迷惑をかけないようにしています。 そんな事でこの8月の合宿のような練習を終えて再び各オーデションを受けに行くと、100%の合格率。 一日に毎日放送、朝日放送とかけもちでオーデションを受けても全てに合格したり、やはり練習の成果が出ていました。 やはり音楽は練習しか上達への近道がないのは今のこの時代も同じです。 |
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(21) (09/5/21) 〜CD発売〜 | ||
この16日に僕の1stアルバムを発売しました。 今日で一週間程経つのですが、少しづつ感想、批評(?)等も聞こえて来ました。と言っても今はまだまだ数人の知り合いや生徒さんの方に買っていただいているので、社交辞令としてのお世辞も心していますが、それでも気に入ってもらえているのはうれしい限りです。ではこのアルバムを出した当人はどう思っているのかと言うと、CDケースの封も切らずにそのまま、まだ聴いていません。もちろん自分で録音したのですが、数曲はあまり良い出来ではないので…、聴きたくない、が本音です。 ディスクはやはりPCでCD-ROMに焼いたのとは違って印刷されたブックレット、キャラメル包装されたケースを見るとうれしいです。それに収録曲全14曲は紛れも無く僕のオリジナル曲で、いわば僕の分身のようなものでもあるのでやっと日の目を見れて良かった。 このCDをこれからライブなどで売っていくのですが、何人かお世話になっている方には送ってあります。その中には僕がギターを弾くきっかけになったBert jansch、Jhon Renbourne、PentangleなどのCDの解説を書いている音楽評論家の方もいます。楽器は出来ないと聴いていますが、さすがに情報や、また耳の良さには驚きます。この方には前もってCDを送る事は伝えているので聴いていただけると思いますが、感想を知るのが少し緊張します。感想ならいいのですが評論になると…。 |
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(22) (09/5/26) 〜合歓の郷 ミュージック・キャンプ〜 | ||
25年以上前の教室を開いていた大阪アベノの三木楽器で毎年生徒さんと「合歓の郷ミュージック・キャンプ」を実施していました。 これは三重県伊勢志摩市の伊勢志摩国立公園内にヤマハが所有している“音楽とスポーツのための合宿施設”がこの「合歓の郷」です。敷地の中には家族が泊まれるリゾート・ホテル等とは別に音楽とスポーツをここの宿泊施設で合宿が目的で毎年日本中から泊り込みに多くの人が訪れていました。一戸建ての練習スタジオが数十戸、野外ステージがふたつ、屋内ホール、レコードやCDの図書館等の音楽施設とフィールド・アーチェリー、ゴルフ・コース、テニス場、プールなど等と、小さな海水浴場もあります。宿泊は一部屋に3〜4人が泊まれる洋式のホテル、食事はホールでバイキング形式。あとディスコ・クラブなど様々な娯楽施設も完備。敷地の中は周遊の無料で乗れるバスも運行されている広さです。 現在はヤマハはすでに管理をしていないと聞いていますが、この「合歓の郷」に毎年二泊三日を朝から夜まで、いや、夜から朝まで音楽三昧を参加者と過ごすのですが、朝はみんなを集めて簡単な楽典や音楽理論の勉強。昼ごはんの後は各自練習スタジオで3時頃まで自由練習(最後に発表会を開くので)。夕方から夕食の間は自由に遊びほうける…時間。夕飯の後は再びみんな集まって夜9時まで音楽知識の勉強など。 二日目の夕食後にホールで発表会ライブ。最後の日は選抜で野外ステージでのライブ参加などなどのスケジュール。 このキャンプで一番濃いのは、夜11時頃から明け方までギターを弾き倒す時間。なにせ4人部屋に夜中中入れ替わり立ち代り朝まで音楽の話や、ブルース大会をしていました。 もうこの年では体がもたないけれど、懐かしい想い出。 |
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(23) (09/5/28) 〜DDT〜 | ||
学生時代は日本中がフォーク・ブームで僕もその類のフォークのグループを組んで活動していた頃、知り合いに男性3人の“DDT”と言う名前のグループがいました。ギターとボーカル、ギター、ウッド・ベースといった編成で、とにかくボーカルがすごい!半端な声量でなく初めて聴いた時はこんな上手いグループがいたのか!?と驚きました。唄う曲はその当時では誰もがオリジナル曲を作って歌うのが当たり前で、確かこのDDTが歌っていた曲名は「すみれ」という彼らのオリジナル曲です。 このグループが生放送ラジオのアマチュア・コーナーに出演するため僕もついていったのですが、彼らが演奏した後にゲストでその頃売り出し中の“五木ひろし”が出て来て唄ったのですが、DDTの後で非常に唄い難そうにしていたのを覚えています。はるかに知り合いのDDTのボーカルの方が声量も歌の上手さが優れていたからです。 しばらくして僕もこのグループにギターで参加する事になり、練習するためにボーカルの家に行きました。 そこでいろいろと彼らの事がわかってきたのですが、三人が三人ともケンカ好き。 そういや時々目の下にアザを付けていたりしていたのを知っていましたが、あれはケンカの跡だった。 「フォーク・ソングを唄っているからってナヨナヨしているわけじゃないぜ!」て感じで、今は懐かしきDDTです。 |
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(24) (09/5/30) 〜アポロ・ヴィヴィット・ステージ〜 | ||
ギターを大阪アベノのアポロ・ビルの三木楽器で開いていた70年代後半。このアポロ・ビルは書店、楽器店、レコード店、飲食店の他にコンサート・ホールがあり、確か4Fの小ホールで毎日放送ラジオの収録がありました。 この番組名が「アポロ・ヴィヴィット・ステージ」。毎週土曜日の朝10時からの15分番組でしたが、司会進行が当時のフォークのプロ、それとアマチュアが一曲演奏…といった内容でした。もちろんこの番組は生ではなくて観客を入れた公開録音でしたが、放送が15分と短いので一ヶ月に一度、その月の4回分を収録していました。 この番組でも当時流行っていたアマチュアが出るのですが、収録日に病気などで来られない人もいました。 そこでこの番組のディレクターが同じビルにある三木楽器に来て誰か代わりに出て欲しい、となり僕が毎回声がかかり、まるでレギュラーのように出させていただきました。もちろん同じ名前で出れないので、毎回名前を適当に変えてですが。 4,5回目になると番組が始まるまでミキサー・ルームで待つ事になりちょっとしたゲスト扱い。 この番組の司会はその頃はまだ大阪等関西だけで有名な谷村新司氏、他の日には“五つの赤い風船”の西岡たかし氏…と毎回キャラが変わるのがおもしろい企画でした。 |
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(25) (09/6/13) 全盲の音楽家 | ||
先日、全盲のピアニストの方がアメリカのテキサスで毎年催されている国際ピアノ・コンクールのグランプリを日本人初の栄冠に輝きました。 この若き20歳のピアニストは生まれた時から全盲というハンディを負っていたわけですが、すでに知る人には天才とよばれていたそうです。 しかしいくら天才とよばれようと並大抵な練習や努力では弾けないと思います。確かに生まれた時から目が不自由な方は外界の情報を耳だけに頼るので目と耳で感知するよりは敏感になるのかもわかりませんが、それだけの理由で世界的なコンクールで優勝は出来ないはずです。それに目が見えないのですから全て暗譜するわけですが、普通僕達が暗譜するには、まず楽譜を見て覚えるまで練習、その結果「覚えてしまう」です。でもこの方は最初から覚えて曲を聴くのですからやはり常人では難しい。 7歳でプロ・デビューされてCDも発売されている方ですがこの先どこまでこの才が伸びるのか!? |
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(26) (09/7/10) フォーク・ソング部コーチ | ||
18歳の頃からギターを教えていましたが、この頃はまだフォーク・ブームもあり高校や大学に「フォーク・ソング部」や「軽音楽部」等がクラブ活動として各高校、大学等で盛んにクラブ活動を行っていました。 そこで新しくクラブとして学校側より認知されても先輩がいない学校も多く、クラブのコーチにと何校かのコラブのコーチの仕事もしていました。 僕は大阪在住なので学校も大阪が中心ですが、なぜか女子高からのコーチの要請が殆どです。大学も数校を教えにも行きましたが高校はおもしろかったです。 今では大物になっていますチンペイさんこと谷村新司氏も某有名女子高のコーチをされていました。 こういった頃に新しくある女子高のフォーク部のコーチに初めて行った時です。 このフォーク・ソング部のクラブ活動の内容ですが、まず部員全員で唄う…ギターとコーラスにそれぞれ分かれて…と各自が好きな曲を練習する、といった具合でフォーク・ソングの歴史やギターの演奏方法についての研究をしているわけではありません。全く自由に唄を唄っている…といった気楽な活動内容です。 で、初めてコーチに出向いたその女子高のクラブでまずは「クラブの歌」を全員で歌うので聴いて欲しいと。 30名位の部員の彼女達がギターとボーカルに分かれて唄い始めたのですが、その「クラブの歌」は僕の作った曲でした。思わず「なんでこの曲を知っているの?」と部長さんに聴くと交流のある他の女子高でのクラブで流行っていたのでクラブの歌にしたそうです。 誰も僕の曲とは知らなかったのですが、うれしいですが不思議です。もちろんレコードで出ているわけもなく僕がその頃に組んでいたフォーク・グループ用に作った曲なのでどうしてかは結局わかりませんでした。 その曲のタイトルは『旅立ち』。 ♪空が 赤く 染まる頃 僕は 独りで 街を出る〜♪ とかの他愛のない曲でした。 |
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(27) (09/8/16) カセット・テープをCDへ | ||
以前から昔のカセット・テープの音源をデジタル化してCDに残そうと考えていたのをやっとここ数日始めています。70年代はLPレコードを買った時にそのアルバムの収録時間に合わせてカセットを買い、家でそのレコードを最初に針を落とす時に同時にカセット・テープに録音して聴いたもんです。 (アナログのレコードは何度も聴くとノイズが入り劣化していきます) そのような元がLPを録音したテープはレコードや後年に買い直したCDを持っているのでそのままですが、70年代当時の自分の演奏や、ジョン・レンボーン、バート・ヤンシュ来日時のコンサート、ライブの客席から録ったテープをはやくデジタル化にして残したいと思っていました。(もちろんこの当時も今と同じくライブ会場での録音は許されていたわけではありませんが、コンサート等では舞台に録音機を堂々と置いても演奏している本人が了承していた古き良き時代でした) 生録したテープにはレコードやCDに収録されていない曲や、同じ曲でもライブでのバージョン違いが聴ける演奏ですので僕にとっては大変大事で貴重なカセット・テープです。 といった事で毎日数本づつデジタル化をしているのですが、何本かCDに焼ければジョン、バート本人に送ろうと考えています。 |